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教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということ を、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体に覚え込ませてやることなのである。生を肯定できない者にとつ ては、あらゆる倫理は空しい。
正論
永井先生曰く
「人間の生は基本的に肯定されると頭ではなく腹から思っていない者に倫理を説いてもむだ」
(略)
「反社会的な善というものがあるのだ。いやあるどころではない。善とは最終的、究極的には反社会的なものなのである。」
ですよねー
「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対するニーチェの答えが「すごい」と騒がれているが、実はもっとぶっ飛んですごい|ふろむだ
「(道徳的な)正しさ」は、元をたどると、次の2つのいずれかに立脚していることが多いです。
(1)社会の多数派にとって損でない。(損得勘定由来)
(2)嘘をつかない。(誠実性由来)
というか...
道徳というのは、嘘と欺瞞で作られた、便利で有益な装置なのだけど、それがそういう装置であることをみなが忘却することによって成り立つ装置なのです。
それが「道徳」の正体です。
本音と建て前
なぜなら、「道徳的に正しい」本にしないと、「道徳的に正しい側」に立って「道徳的に悪い側」を安全地帯から一方的に叩きのめすのが楽しくてしょうがないという卑劣で醜悪な人たちが集まってきて、道徳棍棒で袋叩きにされてしまうからです。
ニーチェは(2)「誠実性」由来の道徳的な正しさを追い求めた人ですが、そうすると結果的に(1)「損得勘定」由来の道徳の欺瞞を暴くことになり、不道徳だという誹りを受けがちです。
すると、道徳棍棒の振り下ろし先を探して舌なめずりしている「道徳的に正しい」人たちの餌食になりやすくなります。
そして、ニーチェについて誠実に語ろうとする本もまた、その宿命を背負っています。このジレンマを切り抜けるために、『これがニーチェだ』は、先ほどの(1)と(2)の両方の道徳的正しさを同時に満たすというアクロバティックなことを、絶妙のバランス感覚でやっています。