間違いだらけの備忘録

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初期仏教 ブッダの思想をたどる

ISBN:9784004317357
さっと読了、大変面白かった。
悟ったと思っていた中二(病)の頃に読みたかったが、多分読んだら違う道に進んでたな。
まあ、出版年的に無理だが。

初期仏教にとって神々は人間より寿命の長い天界の住人に過ぎない。
(略)所詮生まれて死んでいく迷える者である。
もし、「神」を全能の存在と定義するなら、初期仏教は「無神論」である
(略)極楽浄土の阿弥陀仏も苦しいときに飛んで助けに来てくれる観音菩薩も(略)永遠に生きている仏も曼荼羅で描かれる仏世界も説かれない。

素敵~

自己と教えを「拠り所」とするよう(略)善行を実践するためには自己に立脚することが必要だからである。
(略)
仏教は唯物論にもとづく道徳否定論を斥けた。死後の世界は無いと人々が考えるなら論理よりも目先の利益が優先され、(略)弱い者から搾取する世界になってしまう。(略)仏教を含め古代インドではそのような弱肉強食を「魚の法則」と呼んだ。

ほー

仏教は自己と呼ばれているものは(略)認識器官(六処)の束に過ぎないと説き、そのいずれも「自己」とは認めなかった。認識主体としての自己などない、とするのである。
(略)
「自己が存在する」という見解を斥けるのは「主体としての自己」の存在を認めないからである、他方「自己が存在しない」という見解を斥けるのは、死後は無に帰すと考えるなら「自己の再生産」という過程を看過してしまうからである。
「一切が存在する」(略)「一切が存在しない」の両方を斥ける。(略)「非有非無の中道」と呼ぶ

ほー

如来の死後に関する見解は、涅槃に資さず、無益である(略)有益なことこそが明らかにするに価する

マキャベリ

ブッダは自らの教えを筏に喩えている。筏は大きな川を渡るための物であって渡った後に担ぐ物ではない。
(略)教えも最終的には捨てるべきである。

味わい深い
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ブッダ本人の教え」と「現代仏教」は全然違うものになってしまっていて
(略)
その原因として「仏教の教団化(組織化)」があるのではないか、と思っていました。

僕は教団化(組織化)をネガティブな捉え方をしている訳ですが、著者はむしろ肯定的に捉えようとしているように見受けました。

なるほど、当時の社会環境や時代背景を見れば教団化(組織化)は必然であったようにも思え、それは安易に批判して良いものでも無いなと感じました。

問題なのはやはり、現代の我々がそれらをどう捉え直すかということなのでしょう。
(略)
仏教の中身がブッダ本人の教えとは少しずつ離れ、長い時間の中で、それぞれの都合の良い形に変質していったのでしょう。

分かる

馬場紀寿氏、『初期仏教 ブッダの思想を辿る』岩波新書における「布施」トンデモ語源説を撤回 - ひじる日々

著者の間違いではなく、編集者による校正ミスの訂正という形を取っていますが、本文に記載されていた「布施」語源に関する馬場氏の以下の解釈は全削除ということです。

「布施」と漢訳されたのは、出家者に衣の「布」を「施」すことが主要な贈与のひとつだったからである。

ほー

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